図書館でごはん

本がある以外は、ただくらしにひつようなものだけのような家で。

断捨離、人のものに手を出す前に振り返る。自分の断捨離は終わったのか。

整理整頓と共に断捨離をすすめていくと、

家族のものが気になり始める。

 

 

自分の断捨離がある程度先が見えてきて、

判断を保留にしたものたちに手をつけなければなぁという時。

ものを減らすことに楽しみ?のような気持ちを感じている時。

ふと自分以外のスペースを見ると、

家族の整理整頓されていない様子が気になり始める。

 

 

あのDMいつまで取っておくの?

この服、もう何年も着てないじゃん。

もっとこうしたらきれいに使いやすく収納できるのに。

 

 

「すぐに判断できるもの」がそこにあると、

その判断のもとに整理整頓や断捨離をしたくなる。

 

 

でも、自分の感覚と相手の感覚は違う。

気持ちの良い整理整頓の状態や、

何が必要で何が不要なのか、

必ずしも自分と同じまたは賛同してくれるとは限らない。

 

 

整理整頓や断捨離をしているのは自分である。

自分が自分の判断でしているだけのことである。

 

 

自分の整理整頓や断捨離は

家族から見ればガーデニングに勤しむのと同じ、

「好きでやってること」のひとつでしかない。

 

家がきれいになると気持ちいいでしょ。

こうしたら使いやすいでしょ。

それらは自分の感覚や理想で、

家族が同意するとは限らないのだ。

 

 

DMを捨てるよりも

服を選別するよりも

収納を考えるよりも

大切なことややりたいことがあるから、

放置されているのだ。

 

 

たまたま今の自分にとって

大切なことややりたいことが、

整理整頓や断捨離であるだけ。

 

 

人のものに手を出したくなったら振り返ってみる。

 

 

自分の整理整頓や断捨離は完了したのか?

 

 

行き詰まったり、

判断を保留にしたものに手をつける息抜きとして

家族のものに手をつけようとしていないか。

 

 

自分が完了しないままに

人のものに手をだすのは

違うよね。

 

 

 

 

 

でも断捨離ってキリがないから、

生きてる限り自分の断捨離が終わることはない気がする。

 

ということは人のものに手を出すタイミングなんてなくて、

その人が断捨離に興味を持ったら相談相手になるとか

ほんの一部のエリアの整理整頓を任せられるとか

関われることなんてその程度しかないんだろうな。